空に乞うても降らぬ白


 空は重苦しく雲が垂れこみ、末端から凍っていくように気温が低い。指の関節がぎりぎりと錆びていた。十二月も終わりだなあ、と隣の席の級友が言った。もうすぐ冬休みだね、とその前の女生徒が返した。ていうか一週間もすればクリスマスじゃん、とさらにその隣の男子生徒が加わった。やだなあ今年も彼氏なしかあ。じゃあ俺と過ごそうよ。やだ。俺も断る。ちぇ皆でパーティーしようって。
 一九一七年、ドイツ、無制限潜水艦作戦始める。レーニン率いるソヴィエト連邦崩壊。寒さに侵されてノートの文字が角張った。右隣ではなおも空気で喋っている。腕の鳥肌が気味悪く衣服に触れて、寒い、と意味もなく呟いた。一九一九年、ヴェルサイユ条約。
「お前はいいよなあ」
「何が?」
 一九二〇年、国際連盟発足。隣からのいくつかの視線を視界の隅で感じた。
「何がって、今年もクリスマスは彼女と一緒なんだろ」
「あれ、こいつ彼女いたの?」
「あー、知ってるー。五組の人でしょ」
 一九二二年、イタリアでファシスト党のムッソリーニが政権を握る。
「ナチス党ヒトラーが政権を握ったのは何年か?」
「一九三三年」
 三人は声をそろえた。
 おおい静かにしろ、と黒板の下部から気の抜けた教師の声がした。はーい、という三人の声を聞きながら、これだけ寒いならいっそ雪でも降ればいいのに、とぼんやり思った。ノートの筆跡はやはり凍っていた。こめかみが痛んだような気がして、冷えた指先で頭皮に触れた。
 放課後になっても雲は切れず、一層恨めしそうに俺を見下す。薄手のマフラーに鼻先を埋めた。寒い。手袋をしてくるべきだった。カジュアルジャケットのポケットに入れた手が、次第に感覚を失くしていく。人気のなくなった昇降口でスチールの下駄箱にもたれた。遅い、と口にしてみる。息が白く消えていった。磨り減った靴底から冷気が染み込んでくる。寒い。寒い。寒い。
「ごめん。遅くなった」
「寒い」
「男のくせに私よりも寒がりなんだから」
 もっと防寒対策しなさいよ、と彼女は笑った。去年と同じ光景。寒い日には繰り返される会話。それでもそれを繰り返さないことには落ち着かなかった。
 帰ろうか、と隣に並ぶ彼女のスカートは、夏よりも長い。自分も、夏に比べて髪が長い。寒いねえ、と彼女は指を口元で暖めた。寒いね、と俺も返す。寒いねえ、と面白がって彼女は笑う。寒いね、と先程と同じ口調で返した。寒いねえ。寒いね。寒いねえ。寒いね。
「あ、猫」
 細い路地裏から飛び出してきた黒い尻尾。車。タイヤ。避ける。どちらも走り去る。残される冷風。残されたふたり。誰もいない。
「轢かれなくて良かったね」
「そうだね」
 枯落葉が足元で遊ぶ。靴裏のコンクリートがそれを転ばせた。
「寒いねえ」
「寒いね」
 足元は感傷的で、寂寥感に襲われた。寒い、と二酸化炭素が色付いた。
「手、繋ぎませんか」
 微笑む。
「よろこんで」
 彼女も笑った。
 指先は彼女の方が冷たかった。
「雪降るかなあ」
「降るかもな」
「積もるかなあ」
「どうだろう」
「寒いね」
「寒いね」
 立ち止まる。信号は赤だった。冷気にさらされた手が震える。彼女の脈拍が響いた気がした。衣服の下で肘が死んでいく。
「去年は」
 赤が青に変わって歩き出す。街を彩る電飾が目に付く。
「ショートケーキ食べたね」
 彼女が笑う。クリスマスのことだ、とわかった。
「ああ。結局コンビニのミニケーキを食べてた」
「そうそう。本当は私が作るはずだったんだよね。ブッシュ・ド・ノエル」
 見事に失敗しました、と彼女は眉尻を下げた。
 ケーキを作る、と言い出したのは彼女だった。不器用なわけではないが器用でもない彼女は、料理は不得意ではなかったけれど慣れてはいなかった。無理するなよ、と言ってはみたが、彼女の熱意が俺を屈服させた。簡単なものでいい、と言っても、クリスマスはブッシュ・ド・ノエルでしょう、と意気込んでいた。けれども当日になってみると彼女は沈んだ顔で、失敗しちゃった、と謝ってきた。
 失敗しちゃったの? うん、ごめんね。謝らなくていいよ。うーん。どんな風に失敗したの。ぶくぶくぐちゃどーん、って。わからないね。うん、私もわからない。それ、どこにあるの。なんで。食べるから。やだ。食べるって。捨てたもん。捨てちゃったの。捨てちゃったもん。買いに行こうか。何を? ケーキ。どこに? どこがいい? ……コンビニ。
 歩くたびに肌を冷やす風に、思わず歯が鳴った。首をすくめてマフラーで口元を覆う。遠くにクリスマスソングが聞こえた。
「寒いね」
 彼女はどこか遠くを見ていた。
「寒いね」
 俺も眼前を見ていない気がした。寒ささえ非現実的で、すべてが夢心地だった。
「大丈夫?」
 彼女は尋ねる。
「大丈夫」
 けれども俺の声は思いがけず震えていて、失敗したな、と体温がわずかに上昇した。
「手、冷たいよ」
 大丈夫じゃないじゃん、と彼女は言った。
「君の方が指先冷たいよ」
 お互いさまだよ、と俺は言った。
「夏と冬、どっちが好き?」
「秋」
「うわ、ずるい」
 彼女は少し唇を尖らせた。
「ごめんって。そうだな、夏のがいい」
「ふーん。私は春かな」
「うわ、ずるい」
「あはは。やっぱり冬かなあ」
「マジで?」
「マジで」
 何で、と尋ねると彼女は楽しそうに笑った。
「冬は情けないでしょ、君」
 何だそれ、と言うと、本当のことでしょう、と楽しそうだった。だって、と彼女は言った。
「だって、夏はかっこよくなっちゃうじゃん」
 何だそれ、と少し呆れたように言うと、何だろうね、と笑った。
「何だろうねえ」
 彼女はもう一度繰り返して、けれど今度は笑わなかった。
「何だそれ」
 俺はもう何の話題だったか忘れていた。
 押し潰された雲から沈黙が降る。目の前のすべてが物悲しく根を張り、繋いだ手さえ本当に繋いでいるのか確信が持てなかった。これは本当に俺の手なのか。これは本当に彼女の手なのか。俺たちは本当に手を繋いでいるのだろうか。
「冬の君が大好きだった」
 彼女は言う。俺は、うん、と相槌を打った。
「俺もだよ」
「冬の私が?」
「冬の君も、夏の君も」
「うわ、ずるい」
「本当なんだって」
 彼女は笑った。俺も笑った。
「雪、降るかなあ」
 彼女は空を見上げた。俺も顔を上げる。雲が薄くなっていた。
「降らないっぽい」
「でも、きっと冷えるね」
「うん。寒くなるよ」
 俺たちは立ち止まった。右へ進むと彼女の帰り道、俺の帰り道は左だ。俺たちがいつも別れる地点だった。
「寒いね」
「うん、寒い」
 足が動かない。
「辛い?」
 彼女は言う。
「君は?」
 尋ねる。
「ごめん。愚問だった」
 手が離れない。
「寒いね」
「寒いね」
 彼女の手との境目がわからない。
 マフラーに唇を押し付ける。彼女は静かにまばたいた。空気が凍っていく。枯落葉が音を立てる。後方から来た自転車が、こちらを一瞥して右に曲がって行った。
 俺たちは滑稽だろうか。
「さよなら、だね」
「そうだな」
「わかってた?」
「なんとなく」
 君と一緒、と言うと、彼女は小さく笑った。
「じゃあね」
「じゃあな」
 それでもふたりとも動かなかった。動けなかった。息が白かった。
 遠くで聞こえていたクリスマスソングが消えていって、どちらからともなく手を離した。ほどいて初めて、手を繋いでいたんだとわかった。
 彼女は歩き出した。俺も足を進めた。
「じゃあね」
「じゃあな」
 彼女の足音が消えていく。自分の靴音しか聞こえない。手が冷えていく。けれどもポケットに入れることはできなかった。
 俺たちが誇れること、そして一番の間違いだったこと。俺たちは一度として喧嘩をしなかった。
 空からは病弱な雲が消えていた。ブロック塀の上を黒猫が歩いていた。さっきの猫じゃないだろうな、と思いつつ、あんまり急ぐなよ、と話しかけた。猫は一度立ち止まり尻尾を揺らしては暗がりに消えて行った。やっぱりさっきの猫だったか、と思ってみる。けれども確かめようのないことだ。あの猫は寒くないのかな、とぼんやり思った。
 思い出は深すぎて、過去は緩やかだ。夢のように脳内は滲んでいるのに、指先の冷たさはひどく現実的だ。振り返る気はなかった。彼女はいないと知っていた。
 俺は白い息が消えていくのを見つめながら、雪が降ればいいのに、と思った。
                                    


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