さあお前、愛していると言え


( 世界をさだめし者を神と呼ぶならば、やはりそれは神なのだろう )


 彼女は煙草を口にして、白く濁る気体を吐き出した。制服のスカートに、Tシャツ、ワイシャツは腕を通しただけでボタンは留められていなかった。しかも中のTシャツは、目に痛いほどの攻撃的なピンク色、その脇腹を中心に黒が弾けたイラストが描かれていた。彼女は机の上に座り、顎を上げて見下すように目を細め、ぐい、と口角を上げる。その首と耳で光る銀は、明らかに女物ではなかった。
「煙草」
 どれを注意するか、と思い、けれど法的にも問題のあるそれだけを口にした。けれど彼女は気にもせずに、あはは、と笑い、もう一度フィルターに口を付けた。
 放課後の学校は、なぜかほこりのにおいがまとわりつく。普段使われない特別教室ならばなおさらだ。外からは運動部の声と、吹奏楽部の楽器の音が聞こえる。日が落ちるにはまだ早いが、蛍光灯をつけていない部屋は影が目立った。完全なる影になる前の、うすぼんやりとした黒が視界に落ちる。その視界の中で、彼女はフィルターを噛んで、肩甲骨を揺らすように笑っていた。
「またやったろ」
 出入り口の扉に背を付けて、肩を落として息を吐く。彼女は呵呵と笑った。反省も、それどころか机からおりることさえしない。いつものことだ。
「大変だな、生徒会長ってのも」
 彼女が言った。誰のせいだと思ってるんだ、と言えば、私のせいだな、と彼女は腹を抱えて笑った。俺と彼女との距離は数メートル。いつだってこの距離だ。
「喧嘩も大概にしておけ」
「ちゃんと救急車も呼んでやったぜ?」
「お前が俺の話を聞いてないことはわかった」
 聞いてる聞いてるさ、と彼女は楽しそうに笑った。呼気のたびに煙が混じり、首と耳の銀がちらちらと光を返す。どちらかといえば小柄な部類に入る彼女に、それはまるで似合っていなかった。ただ、染色されたことのない黒い髪は、昔のままだった。
「あっはは。くだらねえ」
 彼女はひとしきり笑って、煙草を吸う。目に痛いTシャツのイラストは、人の頭を弾丸で撃ち抜いたところを図化したもののように見えた。そのことを口にすれば、彼女は目をまるくして、それから机の上で笑い転げた。お前本当最高、とげらげら笑う。スカートから伸びる足がばたついていた。その足に履かれた紺のハイソックスだけは、なぜか規定通りだった。普通の女生徒だって履かないのに。昔だってイーストボーイのハイソックスだったくせに。
「この無表情が。眉ぐらい動かせ」
 彼女は肩を震わせたまま、俺を見ていた。
「昔からだ」
 言えば、彼女は笑って、煙草を口にした。彼女の身体の中では、ニコチンが瞬時に作用しているのだろう、と思った。気管も肺も侵される。イトミミズの実験を思い出した。
 ふと、制服のポケットが震える。携帯電話が振動していた。新着メール一件。
 彼女は煙を吐き出して、何年も前に流行ったラブソングを笑いながら口ずさんだ。彼女さんだ、と笑った。
 携帯電話の画面を見れば、差出人はやはり自分の恋人で、どこにいるの、と一言あった。ただその一言のために絵文字や背景で装飾されていたが。
「お熱いことで」
 彼女はわざとらしく時代遅れの台詞を吐いて、ついでに、ひゅう、と言ってみせた。口笛でなく、声帯で、だ。やらなければいいだろうに、口笛なんか吹けないくせに。
「ははっ。さっさと行けよ、プレイボーイ」
 彼女の声にあからさまに顔をしかめて見せれば、クールガイのほうが良いか、と彼女は大口を開けて笑った。
「今、九十年代不良漫画にはまってるんだ」
 彼女はそう言ってなおも笑った。ああ腹いてえ、と笑う。外からユーフォニウムの音が強く聞こえた。コルネットとトロンボーンの音がかき消される。彼女は机の上を転げ回って、短くはないスカートが乱れた。暗色の生地の間から、彼女の白い大腿部が見えた。
「見えるぞ」
 スピーカーがぐずぐずとうなって、それから教師を呼び出す校内放送が流れる。ざらつく機械音に頓着せずに、好きにしろよ、と彼女は笑ったままだった。
「私に突っ込みたいとかいう物好きがいるなら見てみてえよ」
 あはは、と彼女は笑って転げる。影が拡大した視界の中、俺は恋人に返信した。彼女は煙草を口に持ってくる。胸部が膨らむのが見えた。
「お前がモテるとか意味わかんねえよ」
 不公平だよな、と彼女は笑って煙を吐いた。うすぼんやりとした影、曖昧な粒子状の黒が、彼女を侵食していく。俺も同じなんだろう、と思った。
「世界なんて」
 俺の声に、何、と彼女がまばたいた。手に持っていた煙草を、携帯灰皿に押し付ける。
「おしなべて、残酷だろ」
 煙草の灰が目の端に映って、なぜ灰は白がかっているんだろう、と思った。彼女は何も言わなかった。背を向けて教室を離れても、彼女が立てる音は何ひとつ聞こえなかった。けれど、うすぼんやりとした影が落ちる教室の中、まだ机の上に転がって、ぼんやりと煙草に火をつけているのだろうと思った。
 世界なんて、おしなべて残酷だ。
 昇降口には恋人がいた。結われた長い髪が揺れる。嫌味なく染められた髪は、日に当たってきらきらと輝いていた。
「遅い」
「ごめん」
 生徒会の用事があってさ、と言う。恋人は、私とどっちが大事なの、と言って笑った。
 そこにクラスメイトが数人通りかかる。相変わらず仲良いねえ、とひとりが言う。仲良いでしょ、と恋人が返す。あーはいはい恋人いるやつはいいですね、とひとりが言う。ひがむなひがむな、と周りが笑う。そういや髪染めたよね、とひとりが俺を見る。いい色だよね、とひとりが言う。そうだよね、染めたほうがかっこいいよね、と恋人が返す。似合う色めちゃくちゃ探したんだ、と恋人が笑う。
「じゃあね」
「ばいばい」
 クラスメイトを見送って、恋人はふわりと笑った。ああかわいいな、と思った。手を重ねて口付ける。恋人は下からのぞきこんで、好き、と言った。俺も微笑んで、同じように返した。
 世界なんて、おしなべて不安定で残酷だ。
( 君の黒い髪好きだな、私、と記憶の中で誰かが言った )


 本読んでもいい、と君は尋ねた。いいよ、と言えば隣に座って表紙をめくる。俺は課題をやっていて、教科書とノートとにらみ合い。君はページをめくって、俺はシャーペンを走らせる。そういう何でもない時間が、多分俺は好きだった。閉めた蛇口から落ちる水滴だとか変形したロッカーの筋だとか、そういうものを目にとめては、君は楽しそうに笑った。だからか、君といるようになってから、なんでもないことが好きになった。君といると何か温かくなると言ったとき、君は何度もまばたいて、ああそれはどうも、と困惑したまま頭を下げた。告白のつもりだったんだけど、と言うと、君は目を開いて固まって、それからこっちが驚くくらいうろたえた。悪い、言い方が悪かった、と言えば、君は眉を下げた。もうそのときにはお互いに好きだと言って付き合っていたのだから、告白というのは誤解を生む表現だった。でも君を好きだと思ったあのときよりも、好きだと思った。だからそれは告白だった。君はまばたいて、それから笑った。楽しそうに笑った。ああもう本当に、と大きく笑った。俺は君のその飾らない笑い方が好きだった。


「休みにさ、買い物付き合って。新しい服欲しいんだ」
 恋人は笑って腕を引く。いいよ、と言えば、じゃあ何時にしようか、と言った。
「どういう服がいいと思う? 流行ってるのも可愛いんだけど、そうすると友達と遊ぶとき何か一緒になっちゃうしなあ」
「この前着てた、チェックのやつ、あれ似合ってた」
「え、本当?」
 へえああいうの好きなの、そうかあ、と恋人は呟いて笑った。
「私もあれ好き」
 可愛いもんね、と恋人は言った。ああ、と俺は返した。それから恋人は、そういえば、と思い出したように言った。
「不良の、六組の女子、ほら」
 ああ、と俺は返した。煙草吸ってる、あと喧嘩してる、と恋人は言った。ああ、と俺は返した。出席日数危ないんだって、こないだもあそこの高校の人と喧嘩してたみたいだよ、相手病院送りってやつらしいけど、ああ、あと、と恋人は言った。ああ、と俺は返した。援交してるんだって、と恋人は言った。ああ、と俺は返した。


 いつもの特別教室で、いつもの机に座って、いつものように煙草を吸って、彼女は笑った。今日も目の痛いピンク色のTシャツ、けれど前とは違うデザインだった。彼女はやたら攻撃的なピンク色のTシャツばかりを学校に着てくる。一体何枚持ってるんだか。
「今日の小言はどれだ?」
 彼女が笑う。どれだと思う、と呆れてみせる。ネックレスだろ、ピアスだろ、煙草だろ、と彼女は言った。あ、出席日数、とけたけたと笑う。自覚はあったんだな、と息を吐けば、わからないような馬鹿はてめえと話なんかしねえさ、と笑った。その首と耳に光る銀も、肺に入れるのにもはやためらいのない煙草も、相変わらず似合っていなかった。あ、それとも、と彼女は思い出したように言う。机の上で体勢を変えた。
「こっちか?」
 今更、と彼女が笑う。口角を上げて、顎を上げて、歪めた目で見下して、自らの大腿部を晒してみせた。にい、と彼女が笑った。
 ただ白かったはずの暗色の生地の内部、大腿部の内側、そこには手の平ほどの大きさもない、菊と薔薇が咲いていた。刺青。
「馬鹿馬鹿しくていいだろ」
 呵呵と彼女は笑った。頭悪くてさあ、と笑った。俺はただ、菊と薔薇の花を見て、肩甲骨を震わせて笑う彼女を見ていた。
「昔っからだ」
 彼女は煙を吐き出した。
「もう何年も前だなあ」
 呵呵と彼女は笑った。
「尻軽には似合いだろ?」
 にい、と細まる目が、煙草の煙の向こうに見えた。
 口に出さなくとも彼女の非行を咎めるとき、ネックレスやピアスや煙草や喧嘩なんかと同じように、俺はずっと彼女の刺青や交友関係についても苦言をていしてきたんだろう。そうだ。それだけだ。
「世の中」
 彼女が言った。煙を吸って吐き出す口元は笑みの形に歪み、目は細められて、肩の力は抜かれていた。彼女はどこか遠くを見ていた。視線は俺にやりながら、どこかを見ていた。疲れたように、笑っていた。
「気付かなきゃ良かったってことしかないだろ」
 煙草の煙が流れて、消える。どこかしらへ流れて、うすぼんやりとした影に食われた。


( 一緒に学校から帰るだとか、道すがら手を繋ぐだとか、何でもない話をし続けるだとか、逆に何も話さずにただ手を繋ぐことだとか、一緒に試験勉強をするだとか、映画を見るだとか、口論になるだとか、仲直りするだとか )
( 初めて会った日だとか、意識し始めた日だとか、告白した日だとか、初めてキスをした日だとか、体温を知った日だとか )
( 何をしたら笑うかだとか、泣くだとか、喜ぶだとか、苦しむだとか )
( すべてなかったことにされて、ただ今だけが世界の中心 )


 なぜ気付いたんだろう。あのときの、君と俺の問い。
 なぜ気付いてしまったんだろう。君も俺も、答えなんて持ってなかった。
 ねえ、と君は言った。ねえ、と惑うように泣くように疲れたように、君は言った。
 ねえ、記憶と過去が違ったら、間違っているのはどっち。


 恋人が笑う。今度ライブ行こうよ、と恋人は言った。好きでしょ、あのバンド、と恋人は笑った。ああ、と俺は言った。楽しそうだな、と俺は言った。恋人ははしゃぐように笑った。かわいいな、と思った。この恋人のことを好きだと思った。
「プリクラ撮りに行こうよ」
「また?」
「またって、もう! いいじゃない、自慢したいんだもん、私の彼氏、超かっこいいんだって!」
 恋人は拗ねたように腕を引いた。かわいいな、と思ってキスすると、ごまかされないんだからね、と恋人は笑った。


 放課後、いつものように曖昧な影が落ちる教室で、いつものように彼女は机の上にいた。俺もいつものように扉を背に立っている。かちり、と彼女が煙草に火をつける音がした。
「世界最後の日、何がしたい?」
 ぎらついたピンク色のTシャツを着た彼女が言う。世界が終わるとき、と彼女は笑った。
「さあ」
 そんな状況になったことがないからな、と言えば、一度くらい考えたことあるだろ、と彼女は笑った。ノリ悪いぜ生徒会長、と口角を引き上げる。そんなことを言われたところで何も浮かばなかったから、別に、とだけ返した。
「お前は?」
「私?」
 聞かれたいから聞いたんだろう、と言えば、そうだな、そうかもな、と彼女は言った。
「そうだな」
( 世界が終わるとき、何がしたい、と記憶の中で誰かが言った )
 彼女は口元は笑んだままで、どこかを見ていた。
( じゃあ君は、と記憶の中で俺が言った )
 そうだな、と彼女が言った。
「アメスピ吸いながら、“銀河鉄道の夜”を読みたい」
 彼女は煙を吐き出して、想像に浸るように目を閉じた。首と耳の銀が、ごつごつとした光を反射させた。
「いいな、それ」
 考えると、彼女の言うそれは満ち足りた気分になるような気がした。曖昧な影が彼女を覆って、目を開けた彼女は、いいだろ、と笑った。
「お前は?」
 生徒会長、と彼女は笑った。膝を立てると、スカートの裾から花がのぞいた。
「恋人と、過ごしたいな」
「そりゃあいいな」
 俺の言葉に、結構なことだ、と彼女は微笑んだ。煙を吐く仕草はどこか優しげだった。
「愛を囁きながらベッドで死ぬか。理想的な恋愛映画だ」
「頭軽くていいだろ」
「ラスト三十分は大泣きだな」
 キャッチコピーはあれだ、全米が泣いた、だな、と彼女は楽しそうに笑った。
 帰り道で、世界最後の日はどうしたい、と恋人が言った。世界最後の日はどうしたい。目をやれば馬鹿でかい映画のポスターが目に入って、ああハリウッドの影響でやたらそういう話題が出てくるのか、と思った。
「最後の日、か」
「私はねえ、貯金全部使って贅沢したいなあ」
 たとえば、と俺は言った。ホテルでディナーとか、本物の宝石のアクセサリーとか、と恋人は言った。海見に行くのも映画みたいでいいね、と恋人は笑った。
「で、どうしたい?」
 世界最後の日はどうしたい。
「そうだな」
 恋人と食事をする、映画を見てもいい、それとも他愛のない会話をするか、ただ抱き合っていようか。それとも。
「猫」
 え、と恋人が言った。
「猫と暮らしたいな」
 ただぼんやりといつもの日常を猫と過ごしたいな、と俺は言った。猫と眠ったら温かいんじゃないか、と思った。猫といれたら満ち足りた気分になるんじゃないか、と思った。
「黒いのがいいな、猫」
 恋人は何も言わなかった。黒猫がいいな、と俺は言った。
( 私はココア飲みながらトトロ見たいな、と記憶の中で誰かが言った )


( 世界をさだめし者を神と呼ぶならば、やはりそれは神なのだろう )


 放課後、俺の数メートル先に彼女がいた。ほこり臭い学校の中、うすぼんやりとした黒が落ちる視界の中、攻撃的なピンク色のTシャツ、ごつごつとした光を弾く首と耳の銀、けれどそこはいつもの教室じゃなかった。いつもの特別教室じゃなかった。誰もいない、外から部活動の声が聞こえる、廊下だった。彼女は廊下に座り込んで、壁に背を預けている。そのワイシャツもTシャツもスカートも、手も足も顔も、汚れていた。赤に汚れていた。
 お前、と口からこぼれた。よう、と彼女は片手をあげた。ああ見てくれ、ヘマしちまった、と彼女は笑った。肩甲骨を揺らして笑った。
「大丈夫なのか、それ」
 俺の声は焦っていたのに、彼女はただ緩慢に笑ってポケットを探った。煙草を探したのか、けれど何もないと知って、口内の血を吐き出した。
「なあに、ただの喧嘩さ。半分は返り血だから気にすんなよ」
 彼女は呵呵と笑い、手の甲で口元の血をぬぐった。殴打痕で肌が変色していた。首と耳で銀が光った。まるで似合っていなかった。
 けれど似合っていないことが、彼女には似合っていた。喧嘩も血も首と耳の銀も煙草も刺青も、何ひとつ似合わないのに、似合わないものばかりを付加されている彼女には似合っていた。そういう意味で似合っていた。
 彼女との距離は数メートル。いつもこの距離。いつもこれだけの距離。それを越えてはいけない。この数メートルを越えてはいけない。失えない。失いたくない。
 外から運動部の声が聞こえた。球技の道具の音が響く。アルトホルンの音が聞こえた。彼女が俺を見ていた。その手に煙草はなかった。笑ってさえいなかった。疲れたようにまばたく彼女が、俺を見ていた。
 ああ侵してしまった、と思った。彼女の血のにじむ肌にハンドタオルを押し付ける。彼女は一度身体を揺らした。痛むか、と俺は言った。慣れてる、と彼女は言った。ああ侵してしまった、と思った。数メートル、彼女と保ち続けた距離を、侵してしまった。
 野球部の打撃音が聞こえた。フルートの音が聞こえた。視界にはうすぼんやりとした影が落ちていた。その向こう、直線の影、長い髪が見えた。
 びくり、と跳ねた俺の腕を、彼女が押さえる。見るな、と彼女は言った。腕を引こうとするのに、彼女の身体のどこにそんな力があるのか、彼女の手は離れなかった。やめろ、と俺は言った。離せ、と俺は言った。彼女は俺の腕を離さずに、ゆっくりと立ち上がる。黒い髪がさらりと揺れた。やめろ、と俺は言った。やめろ、と俺は言った。
( すべてなかったことにされて、ただ今だけが世界の中心 )
「やめろ、俺は、もう、俺は二度と」
( 今だけが物事を固定せしめて、過去だとか自己同一性だとかなんて容易に再構築される )
「二度とお前を失いたくない!」
 もう二度と、と俺は言った。ああ、と彼女は言った。ふたりとも立ち上がってしまえば、身長差で彼女は俺を見上げることになる。強い目が、俺を見上げた。
「ああ、私もだ」
 視界の向こう、直線の影、廊下の角、長い髪が見える。スカートが見える。
「もう二度とお前を失いたくない」
( ねえ、記憶と過去が違ったら、間違っているのはどっち? )
( 俺たちがわかったのは、俺は俺を失い、君は君を失った、ただそれだけだった )
 視界の向こう、廊下の影、恋人が見えた。
「神に逆らうか」
 彼女が、強く笑った。
( 世界は思惟で構成される )
 彼女の手は外れ、彼女から離れようとする俺の力もなくなる。代わりに引き合う力が加わった。彼女の背に回した手で強く自らに押し付ける。俺の首に回った彼女の手は互いの顔を近付けさせた。
( 世界に連続性なんてどこにもない )
 恋人のことが好きだ。大切にしたい、一緒にいたい。恋人のことを好きだ、と思う。思うだけだ。それでも惹かれるのは、惹かれたのは、昔も今も、君だけだ。
( 世界は誰かの思惟に包括されて稼動する )
 互いの肋骨を押し付けて、皮膚の向こうを求め合う。口付けは血の味がした。不自然に彼女の皮膚が裂けて、赤が手を濡らした。
「離すな」
 彼女が口付けながら言う。運動部の声に雑音が混じる。サックスの音が歪んだ。
( 数多の思惟が世界を構成し影響して、その中でも多くを占めるものを、世界の多くを占めるものを神と呼ぶのなら )
 彼女の身体から赤が走る。俺の身体も崩れて作り変えられていく。それでもただ互いの身体を押し付けあって、口付けるだけはやめなかった。
「好きだとか愛してるだとか恋だ何だとくだらねえ、そんな青臭い感傷と幻想と激情で死んでしまいたい」
 彼女が言った。赤に溺れながら、満ち足りたように笑った。きっと俺も同じような顔をしているんだろう。俺は記憶の俺ではなく、君は記憶の君ではない。そして俺も君も再び死ぬんだろう。これまでと同じように、これからも何度も死んでいく。
「神に殺されるようなキスをしよう」
 俺の言葉に、彼女は楽しそうに笑った。


 さあお前、愛していると言え。



TOP物語