向こう側


 彼はさくり、とレタスを刺した。サラダボウルからフォークを引き出す。緩慢な仕草で口に入れると、ゆっくりと咀嚼した。そしてまたレタスを刺す。その繰り返し。
 彼の前にはサラダしかなかった。彼は四人掛けのテーブルにひとりで座り、周りの喧騒から孤立している。傷だらけの机や椅子、床、壁。汚れた服装の、客や従業員。昼間から酒が飛び交い、高笑いが薄い壁に反響する。貧民街ではありふれた光景だ。
「ねえ、お兄さん」
 彼が座る隣に、服を着崩した女が腰掛けた。曲線を自ら作り出しながら、彼に顔を近付ける。
 ちょっと、と喧騒の中、給仕長の女が声を上げた。そいつはやめときな、と叫ばれた声に、私の勝手でしょ、と女は返した。彼は目を向けることすらせずに、ただフォークを往復させていた。
「何で野菜ばっか食べてるの。ベジタリアン?」
 お酒飲まないの、と女は彼に身体を寄せた。客の注文に怒声で答えながら、給仕長は、知らないよ、と言い捨て汚れた皿を抱えた。
「ねえねえ、名前は?」
 変わらず野菜を咀嚼するだけで、何の反応もない彼に、女はくすくすと笑った。
「クールなのね」
 それとも恥ずかしがり屋、と女は彼の腕に自らの腕を絡めた。
「いい男なのにもったいない」
 ねえ、と女は息を吐いた。彼はただ咀嚼していた。かつん、とフォークが底で鳴る。ビール追加、と踊る声が響いた。あんた達いい加減にしたらどうだい、と給仕長の甲高い声が反響する。外からの光は汚れていた。
 くすくすと女は笑った。彼はフォークを動かすだけしか、身体に力を入れていなかった。力の入れられていない肩や頬を、女は面白がって触れた。
「変な男。あんたみたいのって、私、初めて見るわ」
 女の匂いが彼に移る。女は唇を、彼の耳に近付けた。
「そんなんで、よく今まで生きてこれたわね」
 聞こえてないの、と女は笑った。耳朶に口付けても彼の反応はない。女はさらに笑って、彼の腕に頬を寄せた。
「変な男」
 もしかして異常者、と女は楽しげに声を上げた。
「私も異常なのよ。ここには三日前に来たの」
 ねえ、と女はまばたいた。
「ふたりでどこかへ行かない? こんなとこ抜け出して、大きな街へ行くの」
 きっと楽しいわ、と女は彼の腕を抱きしめた。
 ぎしり、と木製の扉が鳴く。いらっしゃい、と顔を向けた給仕長が眉を寄せた。閉められた扉を背に、三人の男が立っている。彼らは唾を吐いて店の中を見渡した。そして鼻に皺を寄せ、足音を立てながらテーブルへと向かう。途中、荒々しく椅子を蹴り飛ばし、座っていた男が床に転がった。怒りを口にする男を、彼らのひとりが踏みつけた。反撃しようと腕を上げたところを、蹴り上げる。その男を残して、ふたりは彼がサラダを食べているテーブルへと足を向けた。女が強く彼の腕を掴んだ。
「てめえ」
 がん、と彼らの中心にいた男が、テーブルを蹴りつけた。女の肩が跳ねる。もうひとりの男が、牽制するように周囲を睨みつけた。おうい、喧嘩か、やっちまえよ、と酒を注文する声が増えた。
「ボスの金持ち出しといて、逃げられるとでも思ってたのかよ」
 男は女に顔を寄せる。女は彼にしがみついた。
「うるっさいわね、こんなとこまで追ってきて!」
 女の声は揺れていた。彼はレタスを口に入れた。
「こんなとこだ? てめえが逃げ込まなきゃ誰が好き好んで来るかよ」
「来なきゃいいじゃない! こんな額」
 はした金でしょう、と続く前に、女は彼の隣から消えた。隣のテーブルが音を立てて倒れる。女の髪が汚れた床に広がっていた。立ち上がろうとしているのか、筋肉がびくびくと痙攣している。それでも女にできたのは、床に体温を分けることだけだった。
 周囲から笑いと口笛が飛ぶ。給仕長が食器を水の中に放り込んだ。女を殴った男はテーブルに腰掛け、女を笑って見下ろした。彼は男が尻を乗せるテーブルで、サラダボウルの位置を変えることもなく、レタスを刺しては口に運んだ。
 腰掛けた男が、周囲を見渡していた男に目を向ける。視線を向けられた男は口端を上げると、女に近付き腹を蹴り上げた。笑い声と酒を催促する声が充満する。女の声は容易く消えた。
「おいおい、女がやられてるってのに、だんまりかよ」
 腰掛けた男が、彼を見やる。にやりと笑って見える歯は汚れていた。彼はレタスを食べていた。ミニトマトが四つ残っていた。
「さっきまでよろしくやってたんじゃないのかよ」
 女が床を汚していく。椅子がまたひとつ転がった。
「おい、見てみろよ! こんな間抜け久しぶりに見たぜ!」
 俺たちが怖くて知らんぷりだとよ、と男が腰掛けたまま言うと、店の中は笑いに満ちた。入口付近で男を殴っていた彼らのうちのひとりが、女を蹴り飛ばす仲間に加わった。カウンター近くに放り投げられた動かない男に、客が酒をぶちまけた。
「お前も男なら根性見せてみろよ。俺たち結構優しいんだぜ」
 腰掛けた男が彼に顔を近付ける。給仕長が皿を洗う手を一度止めた。けれどそれはすぐに再開される。幾人かが金を置いて店を出た。
「つまんねえ女に命は賭けられねえってか。まあ利口だな」
 女の懇願が床を這う。それは空中に浮くことはなかった。
「つか、一体何食ってんだよ。お前、虫か?」
 男の手がサラダボウルへと向かった。軽い音と、悲鳴。女を蹴っていた男たちが振り返った。
 彼のフォークが軌道を外れていた。視線は変わらず、フォークの位置だけが違っていた。レタスを刺すはずだったそれは標的を変え、肉を刺していた。生きた肉を刺していた。男の手の甲を刺していた。
「ぐあっ。くそ、てめえ!」
 男は貫かれていないほうの拳を突き出した。けれども悲鳴とともに拳は萎えた。男の手の甲を貫いていたフォークが、今度は男の片目に刺さっていた。彼は男を見ていた。サラダを見る目と変わらなかった。金属が軋むような声が男から漏れる。先ほどまで貫かれていた手から赤が流れた。女を蹴っていた男たちが、何をする、と発そうとした声は男の悲鳴にかき消され、テーブルに向かおうとした足も止められた。
 彼はフォークをぐるりと回した。男の悲鳴が大きくなる。店の中は静かだった。給仕長の皿を洗う音が空中に浮いた。
 彼はフォークを動かすだけしか、身体に力を入れていなかった。パスタをすくうように回したそれを、彼は手元に引き寄せた。男の声が上がる。女を蹴っていた男たちが後ずさった。
 男は両手で目を押さえていた。喘ぎ喘ぎに悲鳴を上げて、テーブルにうずくまる。男の手から赤が落ちて、テーブルに弾けた。
 彼はそれを見ていた。フォークに刺さったレタスでないものを。咀嚼しようかと思って、けれどそれは友人がするだろうことだ、と思い、一度まばたいてからフォークをサラダボウルに入れた。軽く障害物に当ててフォークに刺さったものを外す。近くにあったレタスを刺して口に入れた。
 店の中で、給仕長だけが動いていた。誰も喋らなかった。
「くそ、てめっ、てめえ!」
 男が彼に拳を振り上げた。彼はサラダを見ていた。彼はレタスを食べていたが、ミニトマトにフォークを突き刺した。男の声が上がった。彼は男を見ていた。彼は男の赤い眼孔にフォークを突き入れ、フォークの縁を皮膚に当てながら引き戻した。男の声が響いた。固く閉じられた男の目蓋の間から、ミニトマトのへたがのぞいていた。
 男はテーブルに額を押し付けたまま動かなかった。曲線を描く背が小刻みに震えていた。彼はサラダボウルに残ったレタスを咀嚼していた。そして赤いものだけを残して、席を立った。はき古されたジーンズのポケットから出した小銭をテーブルに置き、振り返ることなく店を出て行った。
 彼は路地を歩いていた。汚れ、ごみの散乱するそこを、力の抜けた足音が滑る。泥で汚れた布にうずもれた男が、くぼんだ目を向けた。隣で寝そべったまま動かない子供の手が、砂に埋もれていた。
 彼は砂の多い風にまばたいた。睫毛にかかった砂粒が、しがみついては落とされた。
 ふと、彼は足を止めた。異臭を放つごみ箱の向こう、男が立っていた。男は彼を見ていた。彼は数度まばたいた。
「やあ」
 男は片手を上げることも近付くこともなく、彼に向かって言った。ふたりの間を砂塵が過ぎた。
「久しぶり」
 わかるかい、と男は苦笑した。からかいよりも悲しみよりも、哀れみが浮かんでいた。彼はまばたいた。砂の量が増していた。
「覚えてる?」
 ねえ、と男は言った。
「ここが何だか覚えてる?」
 男の髪が風に従った。彼の髪は砂が絡み、耳元で不快な音をさせた。
「お前が何だか覚えてる?」
 わかるかい、と男は苦笑した。
「俺が何だか、覚えてる?」
 眉を下げたまま男は笑った。彼は男を見た。友人を見た。抉った眼球を咀嚼するような男を。
「ねえ」
 懇願するように、男はまばたいた。彼は友人を呼ぼうとして、やめた。
 男の名前が出てこなかった。
                                   


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