回転におけるループ


 こんにちは、と彼女は言った。こんにちは、と僕は返した。ここ座ってもいい、と彼女はまばたいた。どうぞ、と僕は言った。
「いい天気」
「そうだね」
 それきり彼女は沈黙した。僕も何も言わなかった。
 校舎から声が聞こえる。何重にも重なって交錯した。かん高い笑い声が浮いて聞こえた。それもどこか遠くの出来事で、僕は寝転がったまま目を閉じた。風の音がする。芝生のにおいがした。皮膚が焼けていく感覚がする。どこからか冷凍食品のにおいがした。眠りたい。
 何か彼女が言った。聞き逃した。何、と目を開けると、彼女は近くに腰を下ろしたまま前方を見ていた。髪が風に揺らされた。陽光が微細な色を消していた。
「何か言った?」
 もう一度言う。彼女は一度だけ眉を寄せて眉尻を下げた。彼女はただ前だけを見ていた。何も言わなかった。陽光が色を殺していた。服の下で熱が上がる。腕の骨が痛んだ。てんとう虫が制服の上を這っていた。襟に近付いてきたところを指で弾いた。彼女は緩慢にまばたいた。
「もう、駄目か」
 彼女が呟く。彼女の前髪が額から引きはがされた。それはそのまま煽られて、重さがない分遊ばれた。
「何が?」
 尋ねる必要も義務もなかったが、礼儀ではあるような気がした。彼女は指先すら動かさずに、彼女の髪だけが動いていた。制服が陽光に責めたてられて、熱だけをため込んだ。
「この前の回転までは覚えてたから、大丈夫かと思ったけれど」
 彼女の声は風に従わなかった。彼女の声はひとり言の色をしていた。僕は何も言わずに、彼女の横顔を見ていた。輪郭線が光と影に支配されていた。陽光に支配されていた。
「駄目か」
 風が彼女の髪を浮かせ、落とした。彼女は一度まばたいた。
「忘れてしまったのね」
 彼女は僕を見た。影で片目が見えない。
「忘れてしまったのね」
 何を、と言ったはずの声はかすれて音にはならなかった。芝生のにおいが絡みつく。
「君と会ったことがあったっけ? 僕は何か約束した?」
 鳥の声がした。彼女は頬にかかる髪を押さえた。
「そう、とも、いいえ、とも」
 曖昧だね、と言うと、そうでもない、と彼女は言った。
「どちらも真実」
 どちらも正解、と彼女は言って、ゆっくりと立ち上がった。余分な筋肉のない足は、直線と曲線の中途を描いていた。膝の裏の線がなだらかに落ちていた。
「プログラムをね、作ったの」
 地面に接したままでは、彼女の顔は遠く、見えなかった。
「初めは遊びのプログラム。でもそのうちに、肉体を捨てるプログラムになって、そしていつしか擬似的に世界を作り上げた」
 彼女のスカートが揺れる。足は動かなかった。
「皆忘れていって、もう誰も覚えてない」
 校舎から声がする。何重にも重なって交錯した。かん高い笑い声が浮いて聞こえた。それもどこか遠い出来事で、僕は彼女を見上げていた。
「それでも」
 彼女の髪が乱され引きずられる。鳥の羽音がした。
「それでも、この前までは」
「僕も覚えてた?」
 彼女は、そう、と呟いた。制服の上をてんとう虫が這っていた。
「何の話かわかんないけど、僕が忘れてて君をがっかりさせたんだ」
「そう、なるのか」
 なるのかもしれない、と言う彼女の声は小さかった。音の強弱から笑っているのかもしれなかった。顔が見えなかった。彼女の顔は光の向こうにあった。
「何のプログラム?」
 僕の声は風に負けたのかもしれない。けれども彼女は僕を見下ろした。
「世界のプログラム」
 彼女はまばたいた。風が強くなった。芝生のにおいが肌に絡んで、てんとう虫は離れる気配がない。遠くにスズメが見えた。
「擬似的に世界のプログラムを作って、個人のデータを送り込んで。世界と住人を作り上げた。そのうちに死を間近にした人たちが自分をそこに移し出して、そしてループのシステムを作った」
 彼女のスカートの裾が流れる。髪と同じ動きをした。てんとう虫は動かずにそこにいた。スズメは地面をつついていた。
「生まれて成長して年老いて。また生まれて年老いて。どこまでも続く回転のシステム」
 僕はずっと彼女を見上げていた。校舎からの声は風ほどの力を持ってはいなかった。
「最初は皆覚えていたけれど、忘れてしまった。ひとつの回転においてしか記憶が持続しなくなった」
 彼女はどこかを見ていた。どこも見てはいなかった。
「世界のプログラム?」
「世界のプログラム」
「ここのプログラム?」
「ここのプログラム」
「プログラムの外は?」
 外は、と彼女は言葉を区切った。しばし口を閉じて、まばたいた。
「外は、もうない」
 てんとう虫が飛んでいった。案外にも気味の悪い腹を見せて飛び去った。
「皆死んでしまって、プログラムだけが壊れずに稼動している」
 スズメが飛び跳ねて移動していた。また地面をつついた。
「何で君が知ってるの?」
「外が終わる直前に入ったから。私と」
 彼女はそこで僕を見た。彼女の顔は陰ってしまっていた。
「僕?」
「そう」
「何で?」
「研究を」
 研究をしていたの、と彼女は言った。
「研究?」
「研究」
 芝生のにおいは沈殿して、僕の背中に寄り添った。
「プログラムはループするか」
 木が揺れて葉音がした。風が髪を持ち上げる。僕は彼女を見上げていた。彼女は僕を見下ろしていた。
「皆が忘れてしまったこの世界で、またプログラムが組まれるかもしれない。そしてこの世界をプログラムした外の世界もどこかのプログラムだったかもしれない」
 彼女はゆっくりとまばたいた。
「プログラムはプログラムの中に」
 僕は同じだけの速度でまばたいた。
「プログラムもループする」
 彼女は同じだけの速度で言った。
「ループする世界は世界の中に」
「そして世界はループする」
 風が僕らを置いて吹き抜けた。髪が引きずられて落ちた。彼女はくすりと笑った。僕は彼女を見上げていた。
「ごめんなさい、忘れて」
 悪い冗談よ、と彼女は笑った。頭の上の草にてんとう虫がいた。スズメはどこかへ飛んでいた。
「昼休みも終わってしまった」
 彼女は遠くを見ていた。風の向こうに予鈴が聞こえた。聞こえただけだった。
「ごめん」
 僕が言うと彼女はまばたいて、僕の隣に膝を下ろした。
「君をひとりにした」
 彼女はただ首を下ろして、僕の頬に口付けた。
「さようなら」
 彼女が遠ざかるのと同じ速度で、さようなら、と僕も返した。



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