モノガタリ


 田舎とはどこも似ているものだ。都市の影響を受けずにはいられず、けれど繁栄もしない。この町もまた、多少の近代化の恩恵は受けてはいても、目立った活気もなく若者の姿も少なかった。ただこの町の中心にある広場、簡素なベンチのひとつには少年が座っていた。子供でもなく大人でもない。青年になりかけた少年だった。少年は郵便配達人の制服を着ていた。立派な作りではないが、誰もが一目で彼が郵便配達人とわかる恰好だった。少年はただただ景色を見ていた。ベンチに座って、広場にいるまばらな人影を見ていた。微動だにせず座る老女、おぼつかない足取りの子供、それを見る母親。少年は考えていた。いつも思うことを考えていた。
 自分はこのままでいいのだろうか。自分はこのままではいけないのだろうか。
 少年は仕事の合間、いつもこのベンチに座り、いつも同じことを考えていた。もうこの町に少年と同じ年頃の者はほとんどいなかった。皆、この町を出て行った。ある者は夢を抱えて大きな都市へと向かった。ある者は職を求めて、大都市や農場のある田舎へと向かった。少年はここに残った。病気の母と弟を置いていくことはできなかった。父と姉は出稼ぎに行っていたが、金は薬代ですぐに尽きた。少年にできることは、家計を助けるために働き、母と弟を世話することだった。やっとの思いで郵便配達の仕事をもらった。不満はない。それでもふと思ってしまう。自分はこのままでいいのだろうか。自分はこのままではいけないのだろうか。
 子供が小石につまずいて転んだ。泣き出した子供を母親が抱え起こした。老女はいまだ動かなかった。
「ここは空いてるかな?」
 突然の声に顔を向けると、老人が皺を寄せて笑っていた。どうぞ、と言うと、老人は少年の隣に腰を下ろした。少年は老人に見覚えがなかった。職業柄、少年はこの町に住む人間の顔を覚えていた。外から来たのかもしれない、と思い、少年は驚いて老人を見つめた。
 老人には浮浪者のような疲労感も劣等感も見受けられなかった。彼の服は着古されていたが、石鹸のにおいがしていた。老人はハンカチを取り出すと額の汗を拭った。少年は気まずさを覚えながらも老人を見ていた。親しみすら覚える老人に、元時計屋の主人が重なった。
「今日はいい天気だ」
 余裕を持って相手に接するさまが似ている、と思っていた少年は答える機を逃した。目を泳がして口を開け閉めする少年に、ここはどんな町なのかな、と老人は言った。
「どんなって。特別、名所も名産もないし、ただの町です」
「そうかそうか。それもいい」
 老人はしきりにうなずいて、肉のたるんだ首を撫でた。
「あの、おじいさんは?」
「私かい? ああ、すまない、すまない。これではただの不審者だった。私は、ふむ」
 老人は口を閉じたまま咀嚼するように頬の肉を動かした。
「私は旅人だ」
 老人はまたもしきりにうなずいた。
「外から来たんですか?」
「そうだね。私の故郷はもっとずっと西だ。西の西の西」
 子供の泣き声が聞こえた。老女はもういなかった。
「どうして、旅をするのですか?」
 老人は少年を見てにっこりと笑った。弟が飴を買ってやったときに見せるものと同じで、少年は目を開いた。老人はぼろぼろの鞄を開けると中を探り出した。そして引っ張り出す。
「この本のためにさ」
 それはぼろぼろで、書物に疎い少年にでも古い本だとわかった。表紙の汚れ方が、ただ汚してしまったものではなく、年月に負けて朽ちたさまを伝えていた。
 老人は少年にそれを手渡した。少年は一度老人を見た。老人は笑ってうなずいた。少年はおそるおそる表紙を開いた。本は動かすたびに軋む音を立てた。少年は驚きにまばたいた。ぼろぼろの表紙にも関わらず、中の紙は綿のように白く、子猫のような肌触りをしていた。驚きに何枚も紙をめくるが、どこまでも紙は白いままだった。本は白紙だった。文字ひとつ、汚れひとつそこになかった。
「前はね、物語が書いてあったんだ。とても素敵な物語さ。けれどこの通り、いつの間にか消えてしまって、私の記憶からも消えてしまった」
 少年は老人を見た。老人は目を細めると本を撫でた。
「この物語を求めているのですか?」
 老人はゆっくりとうなずいた。
「どのくらい旅を?」
「はっきりとは覚えていないが、数十年は経つだろうね」
 十年をこえたあたりから数えていないのだ、と老人は言った。老人の目は寂しく、少年は汚れた表紙を撫でた。
 ふたりはしばらく話をした。少年は初めて外の世界を知った。子供と母親はもう広場にいなかった。
「どうするべきか、迷っているんです」
 話が切れたとき、少年はそう言った。老人は何度もうなずいた。
「君のことはわからないが、私は思った通りにここまで来た」
 老人は少年を見てうなずいた。
「私をどう思うかい? 哀れだと思うなら私のようになるべきではない」
 少年はまばたいた。老人はゆっくりと笑った。
「どこをどう生きても辛さはそこにある。大切なことは現状を楽しむことだ」
 風が吹いた。少年は仕事がまだ残っていることを思い出し、慌てて立ち上がると、老人に本を返した。口早にお礼を言う少年に、老人もまた立ち上がって笑った。
「私もそろそろ行かなければ」
 老人は手に返ってきた本を眺め、何度かうなずくと、背を向けた少年を呼び止めた。振り返る少年に、老人は持っていた本を渡した。少年は本と老人を交互に見、やがて焦ったように、受け取れません、と言った。けれど老人は微笑み、少年に本を握らせた。
「君にもらってほしいんだ」
 老人は少年の肩を叩き、そして背を向けた。少年が戸惑ううちに老人の背中は遠くなり、声の届かない場所へと行ってしまった。配達物が少年の鞄の中で、仕事に戻れと肩を重くした。少年は老人の背中と本とを見やり、やがて老人の背中に頭を下げると背を向けた。仕事に戻るために背を向けた。
 老人は足を止めるとゆっくりと振り返り、少年の背中を見送った。本を贈った背中を見送った。ふ、と老人の頭に物語が駆けめぐった。あの本の物語。ある郵便配達の少年が、数奇な人生をたどる冒険譚。彼にきっかけを与える旅の老人。
「今までのことは無駄ではなかった」
 老人は満たされた笑顔を浮かべた。涙さえ光っていた。彼は自らの胸部を掴み、何度もうなずきながら、去っていく今は小さな背中を見送った。
「私には私の価値があった。誇るべき素晴らしい人生だった」
 小さな背中に呟くと、老人は彼に背を向け、歩き出した。それは自信に満ちていた。
「幸あれ、未来ある者に」



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