2月14日のビタア


 自分の部屋だというのに、私は開けた扉を閉めて外へ出た。脱いだ靴をまた履いて外へ出た。自分の部屋だというのに、ごめん、とまで言って扉を閉めた。自分が暮らしているマンションの一室だというのに、私は帰宅したばかりだったというのに、一分もせずにまた外へ出た。
 暗い。寒い。もう夜だっていうのに。首が寒い、と思って、していたマフラーは外してしまっていたことを思い出した。帰宅時にいつもそうするように、玄関に置いてきてしまった。
 自分の部屋があるというのに、私は帰れずに、近くの公園へ向かった。ベンチくらいは私でも座れるだろう、と思った。公園は静かで、暗かった。誰もいなかった。並ぶ木製のベンチは見るからに寒そうだった。実際、冷えていた。コートが濡れてしまう、と思い、けれど何かする気もおきなかった。
 寒い、と呟けば、目の前が白く阻まれた。
 寒い。今頃、暖かい部屋の中で温かい食事をとっているはずだったのに。そして熱いシャワーを浴びて、暖かいベッドの中で眠るのだ。私の部屋で、私の食器で、私の浴室で、私のベッドで。
 自分の部屋で、と思って、喉が痛んだ。呼吸が口と鼻を通らずに、喉で押し止められる。まばたくことを忘れて眼球が凍った。ベンチよりも、目のほうが冷たい。足元よりも、指先よりも、外気よりも、眼球が冷たかった。
 なぜだか今頃になって、激しいいらだちに襲われた。歯が鳴る。腹立たしさが胃を締め上げて、腎臓を圧迫した。横隔膜を押し上げるそれを吐き出したくて、ちくしょう、と呟いてみた。肋骨が痛い。視界には白。それは粒子を引きずりながらすぐに消えた。くそ、と呟く。呟けば呟くほど、肺が軋んだ。
 なぜ私は自分の部屋だというのに出てきてしまったのだろうか。なぜ私は自分の部屋だというのに、ごめん、と言ってしまったのだろうか。言われるべきは私のほうだ。それになぜ私は自分の、と思ったところで、それ以上を言葉にするのはひどく腹立たしく、代わりに、ふざけるな、と呟いた。
 暗かった。寒かった。星はなかった。見たくもなかった。トラックの走り去る音が聞こえた。
 ざり、と小石がぶつかる音がした。コンクリートの鳴き声。ざり、とそれは近付いてきた。近付いて、私の前まで来て止まった。誰なのかもわかっていたが、面倒で、それ以上に腹立たしくて、顔は上げなかった。
 私は何も言わなかった。ただベンチに座っていた。そいつも何も言わなかった。ただ私の前に立っていた。どれくらい経ったのか、おそらく十分は過ぎていた、けれど三十分は経っていない、そんな頃にそいつはくしゃみをした。そいつはいつもくしゃみをするときに、口を押さえない。だから今もそうなのだ、音でわかる。いらいらとして、眉を寄せたまま顔を上げた。そいつは私が置いてきたマフラーをして、鼻をすすっていた。私がじっと見ていることに気付いたのか、目を泳がせてから眉を下げて、ごめん、と言った。何に対してなのかは知らなかった。
 私は何も言わなかった。ただそいつを見ていた。そいつはさらにおどおどと目を動かしてからうつむいて、頭をかいた。もう一度、ごめん、と言った。
 相変わらず、軟弱な男だ。一応人並みに付いている筋肉に強さはなく、一応女よりは浮き出ている骨は脆弱で、柔和過ぎる顔つきはどこまでも腹立たしいだけだった。
 そいつは首をかしげて、もう一度、ごめん、と言った。可愛いね、と評されるべき仕草だった。けれど私は一度たりともこの男が可愛いなどと思ったことはない。思いたくもない。彼女は思ったのだろうか。こんな男のこんな仕草が可愛いなどと。
 そいつは私がさらに怒っているとわかったのか、慌てて幾度もまばたいた。怒りが顔に出ていたのかもしれない。私の表情筋は笑顔には対応しないが、代わりに怒りだけは素直に形作る。どうだっていいのだけれど。
 ごめん、とそいつはもう一度言った。そいつの前髪のせいで目は見えなかった。切ってしまえばいいのだ、と私はよく言った。今も思う。切ってしまえばいい、そんな長い前髪。
 そいつはぎゅっと眉を寄せた。息が白い。眉を下げて、肩を落として、それでも頬は笑みの形に上げて、ごめん、とそいつはもう一度言った。その表情だけは好きだった。困ったように笑うときにだけ、そいつはひどく大人びた。
「ごめんね」
 暗かった。寒かった。星なんて知るはずもなかった。視界にあるのは、白と、そいつだけ。私のマフラーをしたそいつだけ。
「ごめん」
 息が白く色付いて、そして流れて消えた。
 何で、とだけ私は言った。そいつはほっとしたように寄せた眉を緩めて、私の隣に座った。ベンチの冷たさに、そいつは一度震えた。
 何で、なんて尋ねるなんて、なんて馬鹿なのあんた。聞くだけ無駄な問いをした自分を笑った。
「うん、あのね」
 そいつは何か話し始めた。聞くだけ無駄だ。まともな答えがこの男から返ってくるはずもない。だって別に何か深い考えがあってしたことじゃあないのだから。
「それでね、目玉焼きならケチャップだよねって話になって」
 別にどこで出会って何の話で盛り上がってどういう展開になったかなんて興味がない。どうだっていい、そんなこと。
「そのうちカラオケ行くかあってなって」
 低音になりきれていないそいつの声が、いつもうざったくて、不思議で、好ましかった。
「そのうち、そういえば今日ってバレンタインじゃん、って話になって」
 今日は何の約束もしていなかったけれど、こいつのことだからいるんだろう、と思っていた。合鍵はずいぶん前に渡していた。というより、いつの間にか持っていた。いつも好きなときに好きなように、こいつは私の部屋にいた。だから今日もいるんだろう、と思っていた。記念日を私が忘れることがあっても、こいつが忘れたことはなかった。バレンタインだ。私の部屋で、私のベッドに、私の恋人がいてもおかしくはない。ただそこに一緒にいるのは私じゃなかった。私はそれを見て、間抜けにも、ごめん、とまで言って扉を閉めた。玄関にあった、見覚えのない女物の靴を見落としたのは失敗だった。今日は、疲れていた。昼間から忙しかった。疲れていたのだ。
「それでもう暗いねって話になって」
 ねえ、と私は言った。強く言ったつもりだったのに、凍えた喉は使い物にならなかった。
「何?」
 そいつは私を見て微笑んだ。邪気なく口角を上げ、人懐こく目を細め、まるで駄々をこねる子供をあやすように、優しげに微笑んだ。吐き気がした。けれども、そんなことはいつものことで、いちいちつっかからないくらいには耐性がついていた。
「そんなことを聞きたいんじゃないんだけれど」
 頭が痛い。私はそいつを見るのをやめた。そいつも私を見るのをやめた。ふたりとも目の前だけを見ていた。
「何で彼女と寝たのかなんてどうでもいい」
 興味なんてない。私が聞きたいのは、と言うと、うん、とそいつは返した。
「何で、私の部屋なの?」
 最初からそれが聞きたかったのに、こいつは三文芝居のようなよくある話を私に聞かせただけだった。誰にだって予想のつく話なんて、聞くだけ時間の無駄だ。
 そいつは何も言わなかった。その沈黙は、間違っても、罪の意識を感じているからだとか、後ろめたさだとかを感じているからなのではない。断じてないのだ、そんなこと。こいつはただ、問いに対する答えを持ち合わせていないだけだ。こいつはただ自然に、これといった考えもなく、私の部屋を使った。それだけだ。だからこいつは今、あれ、という表情で空を見上げて、そんなこと聞かれると思ってなかった、とわかりやすく顔に出しているのだ。
 だから、何で、なんて質問は馬鹿げているのだ。
 そんな馬鹿なことを尋ねた自分が哀れだ。笑える。しかも暗いし、寒い。加えて自分のマフラーは隣の男にとられている。腹部で膨張する塊が、小刻みに振動した。つられて私も笑った。うつむいたまま笑っていた。
 そいつは笑い出した私を見た。ただじっと見ていた。私は笑いを止められずに、けれど腹の塊は重くて、上体はどんどん沈んだ。鼻先が膝についても、私は笑っていた。そいつは私を見ていた。私は笑っていた。そいつは私の名前を呼んだ。私はまだ笑っていた。
「好きだよ」
 気が付いたときには殴っていた。もうなぜさっきまで笑っていたのかがわからない。笑えやしない。目が凍る。肺が冷気に侵される。私はただ殴っていた。そいつが地に落ちれば蹴り飛ばした。そいつはただ土に汚れながら、好きだよ、と繰り返した。そいつは私に反撃するわけでも、私を止めるでもなく、ただ私が力を加えるまま転がり、汚れながら、鼻から血を流しながら、好きだよ、と繰り返した。微笑んでさえいたのかもしれない。私が好きだった仕草で。そいつは繰り返した。私も繰り返した。そいつの息は白かった。私の息も白かった。そいつは繰り返した。私も繰り返した。それでも同じだったのは、白だけだった。息の白だけだった。
「好きだよ」
 何回目なのか、何十回目なのか、何百回目なのか、そいつがそう言ったときに、私は警察官に羽交い絞めにされて、そいつから引きはがされた。誰かが通報したんだろうな、と思った。そりゃあそうだ、こんな時間に、と頭の三分の一くらいは冷静だった。もっと少なかったのかもしれない。けれど、転がっていたそいつが、大丈夫、とひどく焦った警察官に優しく助け起こされたのを見たとき、私は拘束を振り切って、あいつを思いっきり蹴り飛ばした。
 大丈夫、平気です、何でもないんです、俺が悪いんです、と手厚く看護されたそいつは警察官に言った。私は何も言わなかった。そんな気力もなかった。交番に連れて行かれ警察官に説教じみたことを言われ、怒りは警察官にも向きそうだった。けれどそんなことをする気力などどこにもなかった。事を最初から説明する気もなかった。他の女と関係した恋人との痴話喧嘩、まとめてみればその程度で、その文字から受ける印象はどこまでも情けなく、陳腐だった。
 それから簡単な書類を書いて交番を出た。この歳で警察の世話になるとは思っていなかった。交番に入ったのなんて初めてだ。まともに聞いてはいなかったが、そいつの話でおそらく痴話喧嘩で通ったんだろう。暴力的な彼女のヒステリーに振り回される弱くて可哀相な彼氏、そんなところだ。
 私たちは何も言わずにただ歩いていた。私の部屋へ向かう道を歩いていた。暗かった。寒かった。白かった。
 こいつはいつもそうだ。なぜかいつも被害者になる。なぜかいつも保護の対象だ。
「ひどい男」
 こんなひどい男、見たことないのに。長かったな、と思った。
 そいつは私を見た。俺ってひどい、とひどい顔のまま尋ねた。
「ひどい」
「そうかな」
 暗かった。寒かった。そいつがしている私のマフラーは汚れていた。
「でも、俺、好きだよ」
 好きだよ、とまた繰り返した。
「とりあえず、死んでこい」
 生まれて初めて、私は思った通りに笑えた。
 そいつとはそれ以来、会っていない。会わないまま何年も過ぎた。私は変わらず同じ部屋に住んでいる。ベッドは捨ててしまったけれど。あんな最悪なバレンタインデーは初めてだった。特に良かったバレンタインデーがあるわけではなかったけれど、それだけはわかる。最悪なバレンタインデーだった。
 そいつとはあれ以来、会っていない。でも会っていないだけだ。あのバレンタインデーの翌年から、そいつはバレンタインデーに花を贈ってくる。花に詳しくはないが、素人目にも金がかかりそうだとわかる花。私はそれを宅配業者から受け取って、ごみ箱に捨てる。花に罪はない。だがあいつから贈られたものだというだけで、私はそれを受け取ってはならない。おそらくは、同じように、あいつも私に捨てられると知りながら、毎年贈らなくてはならないのだろう。
 私たちは、普通の恋人ではなかった。お互いに、足らないものが多すぎて、普通にはなれなかった。けれど、お互い様だ、そんなもの。私たちは他人にも、友人にもなれなかった。それでも結局のところ、恋人にしかなれなかった。
 インターフォンが鳴る。今日はバレンタインデーだ。今年も宅配業者が花を持ってくる。お届け物です、と言う声は機械に邪魔されてかすれていた。扉を開けて、白が視界を阻んだ。白い花。今年はまあ豪勢な、と呆れたところで、花の向こうが見えた。私はとりあえず花を受け取ってから、結婚しよう、と微笑んだ前髪の短いそいつに花を投げつけて扉を閉めた。



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